「やりたいことをやるキャリア」の人、晋之助のプロフィール

どうも、しんのすけです。

 

実は35歳を迎えたあたりに、

「自分は何者か」

というテーマで悩んでいました。

 

そう、いい歳ではありますが

いつだって「自分探しの旅」の途中です。

 

そのとき私は、

付き合いの長い知り合い15人ほどに、

 

「あなたから見て私はどんな人?」

と聞いてみました。

 

自分のことって、

意外と分からないものですからね。

 

ありがたいことに

みんな真剣に考えてくれて、

おかげで私の人物像が分かってきました。

 

  • 聞き上手
  • 人の立場に立てる
  • 共感スキル高い
  • 人のつながりを大切にする
  • コツコツ努力ができる
  • 継続力がある
  • 男女問わず友だちが多い
  • 気が利く
  • 仲間を喜ばせることで喜びを覚える
  • 現状に満足せず自己啓発に努める
  • 真面目だけど冗談が通じて話しやすい
  • 自分にストイック
  • 自分を持っている

 

本当はもっとたくさんあるのですが、

いきなり私の性格をどっと並べられても

困っちゃいますよね。

 

なので、今回はプロフィールとして

私の経歴をひとつひとつ

知ってもらえればなぁと思います。

 

私がなぜ、

「やりたいことをやる」

実現してこられたのか。

 

そんなテーマを気にしながら、

ぜひご覧いただければ幸いです。

 

※読み切るのに軽く20分かかるくらいの長さです。できればお時間があるときにじっくりお読みいただければと思います。

 

簡単なプロフィール

まずはサクッとキャリアを紹介すると、
 

① IT商社で飛び込み営業
② 服飾副資材企業で営業+国内外製造統括(負債倒産)
③ RFID(電磁)タグ商社で国内製造統括
④ 人材企業の特例子会社にて広告ライター
⑤ 独立してフリーランスの英語講師
⑥ 英語スクール立ち上げに参画
⑦ IT企業にてエンジニア(外資企業駐在も経験)
⑧ 外資企業にて社内IT
 

という感じで、

これまでに8社6職種+独立・立ち上げを経験しています。

 

さらにはキャリアコンサルタント資格を

2022年3月に取得。(オールA合格!

 

我ながら、

「やりたいことをやってんなぁ」って感じです。

 

もちろん転機の節目にご縁をいただいた、

みなさんのおかげというのもあります。

 

ただ、とても興味深いのが、

こんなに転職を繰り返しているのに、

 

冒頭に紹介した周りからの声では

「コツコツ努力できる」「継続力がある」

という評価をしてくれていること。

 

飽きっぽい性格なのかなぁと

自分では思っていましたが、

周りから見ると「軸」のようなものが

見えているようです。

 

ではそんな私の生い立ちを

詳しく紹介していきたいと思います。

 

「制限とはただの自分の思い込み」を肌で感じた学生時代

「湘北」にあこがれて中学受験

小学生のころといえば、

ドラゴンボールやスラムダンクなど

ジャンプ黄金期の漫画に囲まれていました。

 

なかでもスラムダンクにドハマりし、

当時の多くの同世代と同じように

バスケットマンを目指そうと決めていました。

 

しかし残念ながら、

通っていた小学校には男子バスケ部はなく、

(なぜか女子バスケ部だけあった)

 

進学予定の公立中学にも男子バスケ部はなかったのです。

(なぜか女子バスケ部だけあった)

 

どうしても宮城リョータになりたかった私は 

男子バスケ部がある私立中学に入るために、

中学受験することを決意しました。

 

小学6年生の夏に…

 

そう、受験をするにしては、

かなりタイミングが遅かったのです。

 

何も知らないって素晴らしいですよね。

学校の成績は普通くらいだったにも関わらず、

「行けるっしょ!」という謎の自信がありました。

 

案の定、進学塾に入りたくても塾長からは

「半年じゃ絶対無理ですよ」と言い放たれ、

 

かろうじて入塾にこぎ着けても、

「あいつ受験をなめてんな」

周囲からは好奇の目にさらされ、

 

あんまり生きた心地がしない半年間でした。

 

とはいえ、自身のそこそこの努力と

何重にも重なったマグレのおかげで、

志望中学に見事合格

 

その学校のバスケ部のユニフォームは

なんと赤と白の「湘北カラー」でした。

 

マグレとはいえ、

「頑張れば結果はついてくる」

12歳ながら実感したのです。

 

まぁバスケ部は途中で退部しちゃったんですけどね。

(宮城リョータになれたので満足しちゃった)

 

「ついでが最強」理論による渡米

その中学は中高一貫だったので、

高校受験という大きなイベントはなく、

気づいたら高校生になっていました。

 

そして大学受験を考える時期になり、

 

私はただぼんやりと

「外国語大学にしようかなぁ」

と考えていました。

 

というのもこの中高一貫校は

英語教育にとても力を入れていて、

私自身も英語が好きだったからです。

 

ただ、何か違和感だったんですよね。

 

英語を話せるようになりたいだけなのに

何で受験のために他の科目も勉強しないといかんの?

 

そもそも外国語大学に入っても、

英語ペラペラになれないんじゃない…?

 

そう考えていた私は、

また周りに遅れを取る形で、

なかなか進路を決められずにいました。

 

そんなとき不意に目にしたのが、

アメリカ留学のチラシ。

 

おっとー?

 

もし留学ができれば、

英語を身に付ける「ついでに」

専攻として他のことも学べるじゃないか。

 

なんてオトクなんだ!

 

誰も「日本にいなさい」とは言ってないし、

高校生は大学受験すべきなんて

常識にとらわれなくてもいいじゃないか。

 

「これしかない!」と思い立ち、

家族に直談判した高3の夏。

 

このとき留学に対して

全く反対意見を言わなかった家族には、

本当に感謝しています。

 

ウチは決して裕福な家庭ではありません。

両親は早くに離婚をしたので、

母親に女手一つで育ててもらいました。

 

ただ祖父母が近くに住んでいたので、

家族みんなで相談しながら

留学を後押ししてくれました。

 

中学受験のときもそうでしたが、

「やるだけやってみ?」というのが

我が家の教育姿勢だったようです。

 

こういう家族に育ててもらったので、

「やりたいことをやる」という信念

いま持てているのではないかなと思います。

 

ちなみに「ついでが最強」理論

いまでも私の信念の一つです。

 

ランニングのついでに中国語を学び、

犬の散歩のついでにゴミ拾いする。

 

どう行動したら、

「1粒で2度おいしい」

実現できるのか。

 

この考え方によって、

いろいろと効率化できている気がします。

 

まぁそんなこんなで、

高校を卒業したあとに、

私はアメリカの大学に入学するのでした。

 

価値観を破壊されたアメリカ生活

留学話あるあるですが、

渡米後2週間ほどホームシックとなり、

枕を涙で濡らす日々が続きました。

 

トイレがよくつまるボロボロの寮、

食堂には冷えたピザと虫が飛ぶサラダ、

なんかそこら中で甘い香りがすると思ったらマリファナ。

 

あ、アメリカ留学とはいっても、

LAとかNYとかキラキラした場所じゃないんです。

アメリカ南部の田舎なんです。

 

自分の2倍デカい黒人さんばかりだわ、

湿度が高すぎてすぐカビが生えるわ、

日本列島サイズのハリケーンが来るわ…

 

「俺はこの地で、あと4年もつのか?」

 

当初はそんなことばかり考えていたものですが、

良くも悪くも人って慣れるんですよね。

 

カルチャーショックは

数え切れないほどありました。

 

でもそれは自分が勝手に

日本の型にはめてるからだって

途中で気づいたんです。

 

国が違えば、人も違うし文化も違う。

何なら国が同じでも、人は違うし。

 

そんな考えが自然と定着していったことで、

「違うこと」に対する自分の中のハードルが

ガクッと下がっていった気がします。

 

こうなったらもうあとは楽しむだけ。

 

人生で一番勉強をした時代でもあり、

人生で一番遊んだ時代でもありました。

 

学期中は授業についていけるように

文字通り、朝から晩まで毎日勉強しました。

 

その反動で夏休みには

レンタカーでアメリカ縦断&横断旅行するなど、

思いっきり遊び倒しました。

 

ちなみにアメリカ横断旅行で訪れた、

グランドキャニオンの光景は

今でも忘れられません。

 

注意

この下にグランドキャニオンの写真を貼っています。ちょっと「ヒュンッ」と感じる写真なので、高所恐怖症の方は飛ばしてください。

 

なにがすごいって、

目に入る景色すべてが

「グランドキャニオン」なんです。

 

 

普通、景色って視界の中に、

建物とか森とか山とか、

「何か違うもの」が入りこみますよね。

 

でも、グランドキャニオンはすべてがグランドキャニオンなんです。

(語彙力不足…)

 

しかもこの目に入ってくる景色、

地殻変動や侵食を繰り返しながら

数千万年という年月を経て形成されているんです。

 

数千万年前って何?

恐竜がいた時代なの?

 

そんな気の遠くなる年月による

成果物(?)を目の前にしたとき、

「自分の人生ってちっぽけだなー」って。

 

もちろんいい意味で、

気持ちよく吹っ切れた感覚がありました。

 

留学中の話は山ほどネタがあるのですが、

ここではこれくらいにしておきましょう。

 

何はともあれ、

それまでの人生観や価値観を破壊されながら

着実にアメリカの大学での卒業へと

向かっていくのでした。

 

人生を全否定された就活~新卒時代

ひたすら「お祈り」されて300社

大学を卒業する前に、

避けては通れない大きなイベント。

 

そう、就職活動です。

 

私はここで、

「自分って社会から不要なのでは?」

深い深い闇へと突き落とされることになります。

 

不運にも私が就職活動を行うタイミングに、

リーマンショックが起きました。

世界的規模の金融恐慌です。

 

特にアメリカはその震源地でしたので、

アメリカでの就職は早々に諦めました。

 

まぁもともと日本に帰るつもりだったので、

休学して日本で就活することに。

 

「就職氷河期ではあるけど、

アメリカの大学に在籍してるってのは

かなりの武器になるでしょ♪」

 

と当初は甘く考えていましたが、

フタを開けたらあら不思議。

 

むしろアメリカの大学にいることが、

日本の企業にとって逆効果となっていたようです。

 

ハーバードやらバークレーやら、

超絶名門の有名校ならいざ知らず、

 

アメリカ南部の片田舎にある

名前も知らない大学に通っている日本人。

 

まぁ採用担当からすると怪しいんでしょうね。

 

リーマンショックによって、

採用側も保守的になっていたはずで、

その辺の事情は今でこそ理解できる気がします。

 

「よく分からんアメリカ帰りの学生を取るより、

国内にある名の知れた大学の人材の方が信頼できる」

 

恐らくこういった背景があって、

私は書類選考で合計300社ほど落とされました。

 

もちろん私の書類の書き方が

ただ下手くそだっただけなのかもしれません。

 

しかし、それでも、

アメリカでこんなに頑張ってきた自分

全く評価してもらえないということ。

 

この事実がいつも自分にまとわりついてきて、

正直、命を絶とうと思ったことさえありました。

 

「周りと違うことが自分のアイデンティティ」

 

そんなアメリカナイズされた私の価値観は、

当時の保守的な日本の就活事情によって

粉々に打ち砕かれたのでした。

 

就活を始めたころに思い描いていた、

自分のなかでの理想の職種とか理想の業界は、

こうなってしまえば何の役にも立ちません。

 

ただただ泥臭く、

崖っぷちで粘り続けました。

 

へこたれて諦めてしまいそうになる自分に

「明日はきっと大丈夫」

と、何度も何度も言い聞かせながら。

 

その結果、ようやく1社から

内定をいただくことができました。

 

ただしその企業は、

当時の「ブラック企業ランキング」で

トップクラスに位置するザ・ブラック企業だったのです。

 

ブラック企業はパワハラがお好き

ブラック企業とはいえ

念願の内定を勝ち取った私は、

ようやく緊張の糸を緩めることができました。

 

安心してアメリカに再帰国し、

無事に卒業を迎え

思い出いっぱいの大学生活にサヨナラです。

 

安心した顔してるでしょ?

 

卒業後は日本に戻り、

そして迎えた入社式当日

たしか同期が200人くらいいました。

 

そうそう、このブラック企業、

一部上場でそれなりに大きい企業なんです。

 

それなのに何がブラックかと言うと、

  • 営業職がヤバい
  • 営業職がヤバい
  • 営業職がヤバい

これに尽きます。

 

まぁ具体的に挙げると、 

  • 新規飛び込みをする
  • ノルマ未達で上司から怒号が飛ぶ
  • 売れてない営業の目が死んでる

こんなところが世間ウケしないからでしょう。

 

え、私?

私はもちろん、営業職採用です!(泣)

 

内定のためには選択肢がなかったんです…

 

それでも私には、

 

「他の国内大学卒の同期とは違って

支社の営業所に配属なんてされずに、

都内本社の英語を使う部署に行けるだろう」

 

そんな淡い期待がありました。

(就活で同じような失敗したのを忘れている私)

 

そして私が配属されたのは…

なんと…

 

千葉営業所!

 

任されたエリアは…

なんと…

 

田舎!

  

もうね、会社相手に営業したいのに、

会社の数より畑の数の方が多いの。

 

もちろん英語を使う機会なんてゼロ。

 

うん。なるほど、分かった。

人事が考慮してくれているのは、

家から支社が近いということだけなんだな。

 

まぁ贅沢が言える身分ではありませんでしたが、

会社に期待するのをやめることにした新卒1年目。

 

そのことを悟ってから、

まず目の前のことに集中しようと思い立ち、

けっこう必死に働きました。

 

暑い日も寒い日も足しげく営業し、

しっかり商材の勉強もし、

 

「田舎のエリアの割にやるじゃん」

 

そう言ってもらえるほどは

頑張りました。

 

その頑張りの成果として、

2年目としては異例の部署移動

 

異動先はさらなる田舎になったのですが、

(畑の数が倍増)

将来性のある商材を扱う部署に変わりました。

 

自分が腐らなければ、

仕事でも何とかなるんだ。

 

そう思っていた矢先、

私はまた挫折を経験させられます。

 

異動先の上役(係長)からのパワハラです。

 

パワハラという言葉は、

当時はあまり浸透していなかったので、

 

「やれやれ、結局はブラック企業のやることだな」

 

くらいにしか考えていませんでした。

 

しかしあまりにも居心地の悪い労働環境に、

社会人2年目にして早くも転職を考え始めました。

 

するとちょうどそのくらいの時期、

1年目の営業先から「ウチに来ないか」

お誘いがあったのです。

 

揺るがない特技の獲得

人生の軍師「易学」との出会い

お誘いいただいたのは嬉しかったのですが、

とてもすぐに回答できる条件ではありませんでした。

 

誘ってもらった企業は、

従業員規模5名の家族経営の小さな会社。

風が吹けば飛んでいきそうな古びた社屋。

 

そして年収は当時の半分

 

でも海外とのやり取りが、

業務で発生するんですよ。

英語を活かせる機会があるんです。

 

お金を取るか、やりがいを取るか。

 

働くうえで遭遇しがちなこの二択に、

私はしばらく答えが出せずにいました。

 

そんなときに私の母が、

「すごい人を知ってるから相談してみたら?」

と謎のアドバイス。

 

この時点ですごい怪しいですよね。

さらによく聞いてみると、

その人は何やら「易」というものを操るらしい。

 

はい、警戒心バリバリでしたね。

 

ただ、その人は「易」以外に、

華道、書道、香道など、

日本の芸術に精通しているという

本当にすごい人ということらしい。

 

「んー、たしかにその辺の教祖的な人物より、

ちょっと信用できる気がしてきたかも。」

 

母の熱量に押される形ではありましたが、

留学して日本の良さを知った自分にとって

 

日本芸術に精通しているという点で、

少しずつ面白そうな話に思えてきました。

 

何より、自分ひとりでは答えの出せない

難解な問題を抱えていた私は、

わらにもすがる思いでその人を訪ねたのです。

 

それが私と易学との出会いでした。

 

「易」とは古代中国から伝わる、

占術と哲学が入り混じったような思想のことです。

(詳細は私の人気記事の1つ「易とは何か?」へどうぞ)

 

易について書かれた書物「易経」は、

有名な思想家である孔子が

制作に携わっています。

 

古代中国の軍師たちにとって、

易をたしなんでいることが

ある一定のステータスとされていました。

 

…と、まぁ難しい話をしましたが、

 

現代風にシンプルに説明するなら、

数十本の棒をジャラジャラ混ぜながら、

銀座とかの路上で占いをしているアレです。

 

全くといっていいほど占いを信じていなかった私は、

「まぁ話のネタくらいになるだろう」と

軽い気持ちで行きました。

 

が、

 

これが本当にすごかった。

 

転職するかどうかの悩みについて、

会って間もない自分の性格や

話していない現職の状況すらも

ぴたりと当ててしまうんです。

 

この易が大きな決め手となって、

転職することを決意します。

 

しかし、その決断に踏み出せたことより、

易に出会ったことが衝撃的すぎて、

その後もこの易の先生に相談することになります。

 

そして最終的には、

「先生、私も易をやってみたいです」

とお願いをするほどのめり込んでいました。

 

その先生に弟子入りするような形で、

10数年経った今でも私は易学を研究しています。

 

易の素晴らしいところは、

物事を圧倒的に客観視できることです。

 

「常識とは偏見のコレクションだ」

とアインシュタインは言いました。

 

何かを決めるとき、

何かに悩んだとき、

どうしても偏見や思い込みが、

自分の頭を占有しちゃうものです。

 

そういった自分の主観を排除して、

物事を冷静に見つめることができる。

それが「易」の考え方です。

 

私が大きな決断をするときには、

必ずこの易を活用して、

自分の思考をクリアにしています。

 

「相手の立場に立つ」が当たり前になった国際交流活動

「おいおい、転職の話はどこいった?」

 

はい、そうですよね。

易の話に熱が入ってしまい、

話がだいぶ逸れてしまいました。

 

ただ、逸れるついでに、

もう1つ私の特技について

書かせてください。

 

易学のほかのもう1つの特技は、

「相手の立場に立つ」

というものです。

 

(転職の話には次章で戻ります)

 

その易の先生なのですが、

本当にまぁすごい人で、

 

華道、書道、香道 など

日本芸術の活動を日本国内だけでなく

世界を股にかけて行っている人なんです。

 

私も英語を扱えるということから、

易を教えてもらう一方で、

先生の活動のお手伝いもしていました。

 

その活動の1つとして、

国際的な協会による交流活動があり、

 

ひょんなことから私は、

その協会の事務局長になったのです。

 

この活動によって得た経験は

とても大きな私の財産となっています。

 

様々な国の方々とやり取りするのですが、

文化や考え方の違いという壁は

簡単には解消できないんですよね。

 

ときには海外の政府官公庁の方や、

大使館関係の方が相手となることも。

 

国、文化、考え方、役職、etc..

違いを挙げればキリがありません。

 

アメリカで生活してきた私でも、

そんな方々とやり取りをする中で

 

「なんでそういう話になるねん」

 

という具合に、

上手くコミュニケーションが

取れないことが多々ありました。

 

そのなかで培ってきたのが、

  • 相手の立場に立つ
  • 相手の気持ちを考える

というスキルです。

 

「これを伝えたら相手はどう思うかな」

「どう伝えたら相手は話を聞いてくれるかな」

 

「違うこと」ばかりに目を向けていては

永遠に分かり合えなくなってしまうので、

「同じ人間」として接することにしよう。

 

こう意識することによって、

やり取りでのストレスも減りましたし、

何より海外の人から好かれるようになりました。

 

相手の立場に立って物事を考える。

 

もちろん同じ日本人が相手でも、

まずはこの意識を忘れないようにしています。

 

働き盛りで経験値の荒稼ぎ

命短し働け壮年

ということで、

転職の話に戻りましょう。

 

ダイジェストで振り返ると、

 

ブラック企業での高い給料を取るか、

超零細企業でのやりがいを取るか。

 

この二択で迷っていたところ、

易の先生の助けもあって、

超零細企業に行くことを決めたのでした。

 

海外とのやり取りという

やりがいは得られたのです…

 

が、

 

ただね、ここもブラックでした。

 

厳しいとか怒られるとかはないんですが、

トップの人の意識がズボラすぎました。

 

平気で遅刻はするし、

納期遅れは発生させるし、

できないことをお客さんと約束しちゃうし。

 

そして、そのしわ寄せが私に来るわけです。

 

私はやるならしっかりやりたいタイプなので、

繁忙期には終電を逃すこともザラで、

会社に寝泊まりしながら仕事していました。

 

プレハブ小屋みたいな社屋だったので、

冬場は体の芯まで凍えていたのがいい思い出。

 

まぁそんな劣悪な労働環境と、

薄給のなかでも我慢しながら、

「3年は頑張ろう」と踏ん張りました。

 

そしてだいたい3年経ったころ、

会社の借金が原因で、

倒産してしまうんですよ。

 

倒産寸前の仕事はさらに大変でした。

 

いつもの業務に加えて、

「お前ンとこにカチコミに行ったろか、コラァ」

なんて借金取りからの電話対応が追加。

 

そんなときでもトップの人は

遅刻をしていて音信不通。

 

このとき私は普通の精神状態ではいられず、

しばらくは電話対応恐怖症になるくらい、

いい具合に病んでいました。

 

そしてこの倒産をきっかけに、

私はまた転職することになります。

 

さて、このあとの経験もなかなか濃いのですが、

ここまでの話ほどではありません。

 

さらに何と言っても、

冒頭で書いたこの私の略歴、 

 

① IT商社で飛び込み営業
② 服飾副資材企業で営業+国内外製造統括(負債倒産)
③ RFID(電磁)タグ商社で国内製造統括
④ 人材企業の特例子会社にて広告ライター
⑤ 独立してフリーランスの英語講師
⑥ 英語スクール立ち上げに参画
⑦ IT企業にてエンジニア(外資企業駐在も経験)

 

今はまだこれの②の段階なのです。

(私のキャリア話、長すぎ…!)

 

ということでここからは、

③以降をサクサク進めていきます。

 

③ RFID(電磁)タグ商社で国内製造統括

この倒産してしまった超零細企業の

取引先だった会社さんに、

 

「転職先が見つかるまでいていいよ」と

言ってもらい、お言葉に甘えて

その会社さんで働かせてもらう。

 
④ 人材企業の特例子会社にて広告ライター

ライターの仕事をしたかったので、

某大手人材企業の特例子会社

求人広告ライターとして働く。

 

あ、特例子会社というのは、

多くの障がい者を雇用するために

大手企業によって設立される子会社です。

 

ここでの障がい者の方々との働き方も、

とても勉強になりました。

 

⑤ 独立してフリーランスの英語講師

そのあとは独立して英語講師になりました。

「サラリーマンじゃない働き方」

1回経験してみたかったんです。

 

でもあまりにも考えなしで独立したので、

いくつかバイトを掛け持ちしながら、

休みなく必死に働きました。

 

そして独立してから2,3年後。

 

⑥ 英語スクール立ち上げに参画

「英語スクールを立ち上げる」

という知り合いから誘われて、

 

社会人向け英語スクールの

立ち上げに参画することに。

 

事業立ち上げなので

やることは盛りだくさん

 

英語レッスンはもちろん、

顧客獲得のために

マーケティング的な業務も担当。

 

また、社会人向けレッスンなので、

英語を教えると同時に、

生徒さんのキャリア相談に乗ることも。

 

社会人にとっての英語スキルって、

キャリアパスと密接に関係していますからね。

 

これまでの幅広い経験を活かして、

的確なアドバイスができていたと思います。

 

ちなみに、

今でもこのスクールには在籍しています。

 

⑦ IT企業にてエンジニア

独立や立ち上げを経験したこともあり、

英語講師という仕事に、

誇りとやりがいを持つようになりました。

 

ただ、心のどこかで、

「ITの発展でいつか講師は不要になる」

とも思っていました。

 

そんな危機感を抱くと同時に、

 

そのITの発展を支えるような

IT企業で働くことに対しても、

憧れのようなものを感じていました。

 

そしてこれまた、

「英語ができるエンジニアを探してて」

というお誘い話をキャッチ。

 

いや、私エンジニアじゃないんですけどね。

バリバリの文系人間なんですけどね。

 

ところがなんと未経験でも、

「何とかなるでしょ」とのことらしく、

外資企業の常駐エンジニアとして採用決定。

 

その数年後、外資企業との契約は終わり、

採用してくれた企業に出戻りをして、

エンジニア業をしておりました。

 

⑧ 外資企業にて社内IT

とはいってもエンジニア業という、

パソコンに向かい続けるお仕事が

自分には合っていなかったんです。

 

ちょうどコロナの期間でもあり、

「人と話すことなく1日が終わる」

なんてこともザラにありました。

 

仕事に対する閉塞感を抱き始めた矢先、

またもお誘い話をいただきました。

本当にありがたいことです。

 

アメリカ本社のメーカー企業で、

社内ITのポジションに対する打診でした。

 

社内スタッフのITトラブルを解決する、

というタスクのため人と接する機会が多く

さらにITスキルも活かせる理想的な仕事です。

 

あれよあれよとスムーズに話が進み、

今や東京オフィスのIT管理者の1人です。

 

はい、ここまでが

今までの私のキャリアの流れです。

 

合計で8社6職種分。

いやー、長かったですね。

 

こうして振り返ってみると、

我ながら山あり谷ありな人生だなと。

 

特に就活~社会人スタートの時代は

なんなら「谷」しかなかったですし…

 

ただ、その谷の時期でも、

 

自分と向き合いながら

腐らずに働いてきたからこそ

 

結果的に、

多くのご縁に恵まれるキャリアになったのだと

つくづく実感します。

 

就職活動のときには、

社会から「不要」とされた私。

 

でもその社会が生んだ様々なご縁によって

これだけユニークな経験ができるなんて

何とも面白い話です。

 

台湾との巡り合わせ

実は台湾や中国語というのも

このブログのテーマの1つです。

 

というのも、ある年に

私は台湾にドハマりしたのです。

 

英語講師をやっていた2019年。

当時の生徒さんから

こんなお話を持ち掛けられました。

 

「台湾で通訳をしてもらえませんか?」

 

え、なんで台湾?

そもそも台湾って英語圏でした?

 

そんなツッコミを入れたいところを

グッとこらえて、

詳細を聞くことにしました。

 

どうやらその生徒さん、

英語の他にも別の習い事をしているようで、

その習い事の先生が台湾との仕事をしたいのだそう。

 

ただ、その仕事はまだ見通しが立てられず、

コストを掛けるわけにもいかない。

なのでプロの通訳も雇えない。

 

航空券代と数日分の滞在費だけという

最低限の条件でも、

引き受けてくれる人はいないか。

 

という背景から、

私に話を持ち掛けてみたとのこと。

 

はい、面白そうだったので、

私は早速引き受けました。

(通訳言語は英語でOKだったので)

 

それまで台湾に行ったことはなく、

以前から行ってみたいと思っていました。

 

台湾ってかなりの親日国じゃないですか。

 

親日家の方々の存在って

本当にありがたいと思うんです。

 

日本のことを好きでいてくれてる方々が

海外にたくさんいる。

 

この事実を知っているだけでも、

日本人として誇らしい気持ちになります。

 

そんな日本好きの台湾とは、

いったいどんな国なのか。

 

私はワクワクで胸がいっぱいでした。

 

そして、いざ台湾に着いて

真っ先に感じたのは、

 

「ほんまめっちゃ暑い」

 

アメリカ南部での生活経験もある私は、

比較的暑さへの抵抗は強いのですが、

それでも台湾は暑かったですね。

 

でも、やっぱり素晴らしい国でした。

ご飯は美味しいし、

親切な人ばかりですし。

 

あと街並みもかなり好きです。

 

どことなく日本に似た風景なのに、

海外の土地だということに、

なんとも言えないエモさを感じます。

 

台湾南部の高雄という街

 

この通訳の仕事で、

初めて台湾を訪れたのが6月。

 

結局、その年の12月までに

追加で3回行きました。

(ハマりすぎ)

 

もちろん仕事は抜きで。

 

その後はコロナ禍となってしまい、

残念ながら台湾には行けていません。

 

その間に中国語スキルを磨きながら、

また台湾に行ける日を

楽しみに待っているところです。

 

そしていつかは台湾と日本の

架け橋となるようなことも

ぜひやってみたいですね。

 

キャリアのプロフェッショナルへ

キャリアコンサルタントの道

これだけ幅広い経験をしている私ですが、

少し前まではこのキャリアに対して

コンプレックスを抱いていました。

 

この先、転職できるチャンスは減るし、

やたらと経験の幅だけはあるけど、

1つの職種やスキルを突き詰めたことはない

 

このままで自分はいいのだろうか。

将来もちゃんと働けるのだろうか。

自分の何が社会に活かせるのだろうか。

 

自分の長所や特技、

歩んできたキャリア、

そして将来やりたいこと。

 

いろいろと考え抜いた結果、

たどり着いたのが

キャリアコンサルタントでした。

 

様々な業界や職種、

そして独立・立ち上げといった

ユニークな実体験があること。

 

なおかつ相手の立場に立って

話を聞くことができること。

 

キャリアコンサルタントであれば

自分自身を最大限に活かせる。

 

そう考えた結果、

キャリアコンサルタント試験を受けて

見事オールA合格!

 

キャリアコンサルタントとしての

収益化には苦労していますが、

対人スキルはかなり向上したと思います。

 

実現したい未来

悩みのない社会を作る

今の日本の空気って、

どよーんとしてる気がするんです。

 

ずっと給料は上がらないし、

少子高齢化だし、

将来は人口減が確実だし、

未来に明るい話題はないし。

 

こんな日本に住んでいて、

「悩むな!」って言うのは

ほぼ不可能だと思うんです。

 

でも、だからこそ、

私は「悩み」のない日本を作りたい。

 

不安・心配を抱えることなく、

未来に向かって楽しく生きていける。

そんな人を1人でも多く増やしたい。

 

これが私の夢であり目標です。

 

私の経験を最大限活かすことができれば、

必ずできると信じています。

 

そのために、日々知識を蓄えながら、

ブログやSNSを使って

情報発信をしています。

 

「やりたいことをやりたい」

「楽しく人生を過ごしたい」

 

私はそんな人の味方です。

 

それでは、今回はこの辺で失礼いたします。

 

長い長いプロフィールを

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

2021年12月10日

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